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風の便り

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生涯学習通信

「風の便り」(第79号)

発行日:平成18年7月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. どこから来たのか?どうしろと言うのか? 〜「小1プロブレン」〜

2. どこから来たのか?どうしろと言うのか? 〜「小1プロブレン」〜(続き)

3. 諸外国の生涯学習モデルに学ぶ

4. A小学校への提案 −家庭秩序の崩壊から学校秩序の崩壊へ

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

A小学校への提案 −家庭秩序の崩壊から学校秩序の崩壊へ

  フロイドが指摘したように「自我」はむき出しの欲求を意味しています。「超自我」を発達させて欲求の抑制をしなければ「万人の万人に対する戦い」が始まります。道徳も法も無秩序・無差別な欲求の衝突をさけるために人間が発明した仕組みです。それゆえ、子どもの「自我」だけが一人歩きをするような状況を許せば、やがて、家庭の秩序は崩壊し、次に学校の秩序が崩壊し、最後に社会が崩壊するでしょう。法や道徳がその働きを失えば、あらゆる組織の秩序が崩壊し、制御の効かない自我の衝突を防ぎ切れないからです。それゆえ、人間の欲望をコントロールする規範の内面化が不可欠です。それが「超自我」の発達です。誰かが社会を代表して子どもに「規範」を提示し、「自我」をこえる「掟」の存在を教えなければなりません。どの社会も全力を上げて構成員を社会人にしようとします。それが「社会化」の原理ですが、方法は以下の通りです。

1 強制 第一は物理的な強制です。本人の危険を避けるためにも、周りの安全を保障するためにも危険行為は強制力を持って阻止します。「強制」の裏づけは「恐怖」と「罰則」です。「強制」は非民主的で、非教育的だと考えられがちですが、「強制」こそが教育の原点です。子どもを火や熱湯に近付けないのも、危険な道路で手をつなぐのも、海水浴で赤い旗の向こうに行ってはならないと叱るのも危険の回避に教育的強制がもっとも有効で重要だからです。小学校教育は先ず正当な「強制」から始めなければなりません。「恐怖」と「罰則」を代表する「鬼の役」を決めて下さい。通常は、校長先生、あなたが「鬼」になるべきです。責任の重さと「鬼役」の辛さがあるのであなたのお給料は高いのです。余談ですが愛情を持った「体罰」が大事なのも「恐怖」と「罰則」が最終的に未熟な子ども自身を守るからなのです。

2 役割取得 G.H.ミードの理論ですが、未熟な子どもは「道徳」や「一般ルール」から「やるべきこと」を学び、「やってはならないこと」を習得するのではありません。まず自分の周りの人間から「役割の演じ方」を真似て取得します。子どもに親しい人間を「特別他者」と呼び、子どもから遠い一般社会の人間を「一般的他者」と呼びます。「ルール」は「一般的他者」の代名詞ですが、子どもがルールをルールとして学ぶようになるのはずっと後の事です。
  初めは自分に親しい人間から学ぶしか方法がないのです。親と先生は間違いなく子どもが信頼を置くべき「特別他者」です。「他者」が「特別他者」になるためには子どもの「他者」に対する信頼が鍵になります。信頼を生み、育てるためには子どもと他者との「同行」が鍵になります。「親子同行」「師弟同行」などといわれてきました。「同行」が鍵になるのは、経験を共有し、困難に挑戦し、喜怒哀楽を共有して、親密さが増して行くからです。親しい関係の中で、先生をモデルとして子どもが真似をし、モデルのやる通りにやる「モデリング」が自然に起るからです。「師弟同行」は「モデリング」の原点であり、子どもが役割を取得する方法上の原点です。掃除も給食も遊びもあいさつも礼儀も一緒にすればあっという間に先生のやるように子どももやるようになります。言葉だけで言って聞かせても子どもは「役割取得」はできません。現代の教育は「体得」を忘れていると書いてきたのは、言葉だけに頼った教育ではダメだという意味です。
  学校は教科書や言葉の「半分」を捨てて「同行」を実行してみて下さい。子どもが変わることを「請け合い」ます。親のしつけが崩壊に瀕している今、なぜ、教員が参加する「通学合宿」や「キャンプ」をもっと頻繁に、もっとレベルを上げて実行しないのでしょうか?今となっては、総合的学習の105時間はそういうことのために使うべきなのです。先生方がお出来にならないのであれば、私や他のゲストティーチャーにやらせてみてくれませんか!?


3 同一視 「同一視」とは子どもが「あの人のようになりたい」と願って模倣の努力を続けることです。もちろん、「同一視」が成り立つためには、教育モデルに対する「尊敬」と「あこがれ」が原点です。「かあさんのようになりたい」時も、「先生のようになりたい」時も、子どもは敬意と畏怖をもって指導者を見上げています。あこがれのモデルは自分より遥か上の方の遠くにいるからです。それが子どもとモデルとの「心理的距離」です。人工的に作り上げる「教育的距離」と言っても良いかも知れません。
  子どもが自分より「凄くて」、自分より「えらい」人に憧れるのは当然の事でしょう。子どもの模倣は学びの原点ですが、子ども自身があこがれて「あの人のようになりたい」と願う時、模倣は「同一視」になります。モデルに対する尊敬やあこがれがあれば、模倣効果ももちろん抜群であることは言うまでもありません。
  それゆえ、教師は子どもと同列になってはなりません。教育の民主主義などという馬鹿げた発想を指導に持ち込んだら同一視は起らなくなります。教師は子どもと友だちであってはならないのです。先生方はたとえそれが「擬制」であっても、子どもより「凄く」て、子どもより「えらく」なくてはならないのです。教師への尊敬やあこがれは教育の最も重要な約束事です。学校の中の秩序を工夫して人工的にでも「心理的距離」を作らなければ「同一視」は起らないのです。教師に対する作法や言葉使いが大切になるのはそのためです。戦後60年を経て、「子宝の風土」の親はすでに子どものところへ降りて行ってしまいました。親子は同列の域を脱して、今や「宝」に仕える「召し使い」のような家族すらあります。だから「しつけ」が強制できないのです。現代の多くの家庭では、子どもの「嫌がること」の指導は絶望的に不可能です。学校も同じ轍を踏みますか?教員が子どもの友だちになりたいのなら教員を辞めて、「守役」を降りてからにしていただきたいものです。国家が高い給料を払って「一人前」のトレーニングを付託しているのに対して、教育に携わるあなた方の多くはあまりにも無力で、無責任なのです。

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