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生涯学習通信

「風の便り」(第79号)

発行日:平成18年7月

発行者:「風の便り」編集委員会


1. どこから来たのか?どうしろと言うのか? 〜「小1プロブレン」〜

2. どこから来たのか?どうしろと言うのか? 〜「小1プロブレン」〜(続き)

3. 諸外国の生涯学習モデルに学ぶ

4. A小学校への提案 −家庭秩序の崩壊から学校秩序の崩壊へ

5. MESSAGE TO AND FROM

6. お知らせ&編集後記

II  どこへ行くのか?

1  無理なことを言う!!

  社会状況が問題だから色々過激なことを言いたくなるのは分らないではないが、あまり無理を言ってはなるまい。
  例えば、「親になる免許状を発行しろ」というのがあった。親になってはならない奴が親になっているという怒りの声であろうが、免許状と言っても誰が審査するというのか?「子どものしつけが出来ていない親に罰をあたえよ」というのも、「子どもを持つ親に地域の役割を義務化せよ」などいうのも同じ感覚から出た意見であろう。
  「テレビは夜11時まで!」とか、「24時間営業を禁止せよ!」というのも無理だろう。日常の生活リズムの崩壊も、青少年の夜更かしも確かに関係はあるだろうが、3交替制の生産・サービスシステムを採用した以上、言っている本人も利便の恩恵は受ける時があるだろう。「良い先生を作るために給料を上げろ」というのもあった。田中角栄総理の改革以来、高い給料だけで良い先生が育たないことは既に証明済みである。時代はすでに教員の給料引き下げに入ったのである。「先生が親を育てる」というものもあったが先生の方が親より優れているという想定は間違っているだろう。問題児の多くが教員の家庭から出ているのは周知の事実である。
  「子どもを強制的に子ども集団に参加させる」のも、「子育て教育」や「妊娠者の子育て学習」を義務化せよ、というのも無理である。一番無理なのは「政治よ、何とかせよ!」であった。政治が問題の所在を分かっていれば、文部科学省の抜本改革や公立学校の「チャーター化」の実験はとっくの昔に着手されていたことであろう。政治家は選挙民の知力の反映であり、国民のレベルの平均値である。事態が行き詰まって問題が噴出するまで理解する訳はない。

2  子どもをどうしろと言うのか?

  「子どもの社会性の訓練」を徹底する。「子どもの体力と耐性」を鍛える。「子どもに不便の体験」を与える。教育に「信賞必罰」の考え方を導入する。「当たり前の事を当たり前にさせる」。「学校で基本的しつけのプログラムを作る」。「外遊びの時間を作り、外遊びの環境を作る」。「最小限のルールは必ず守らせる」。「意図的に異年齢集団を作る」。子どもの指導に「強制力」を導入する。「敬語・丁寧語」を徹底し、「間食は許さず」、「子どもだけで問題解決をさせてみる」。
  しつけを回復する方向性は上記の通りであろうが、一体、「誰」がどのようにやるのか?スローガンを言う以上実践の中身と方法も言わなければならない。

3  親も、学校も変われない!!

  提案の多くは親と学校を変えることであった。しかし、提案された変革案の中心は学校を支えてきた教育思想ではなく、システムや力点の起き方であった。今、学校や指導のシステムをいじっても、親の思想も、学校の思想も変わることはない!!だからこそ今日の状況を招いたのである。
  以下に列挙したような「提案」で「小1プロブレン」は解決しない。解決法についての筆者と提案者の間の「みぞ」は想像以上に大きかった。当日のフォーラム参加者に学校の先生方が多かったからであろう。筆者は現代日本に風靡している児童中心主義の「批判者」であり、「子どもの主体性」論を標榜する学校こそは筆者が掲げる子育て支援思想の「天敵」だからであろう。

(1) 思想が変わらなければ、システムを変えても状況はかわらない!

  「採用試験のあり方」を見直しても、「担任複数制」を取入れても、「ベテランと新任のペア指導」を工夫しても、「少人数学級」を作っても、「親のカウンセリング」を実行しても、「管理職が学級に入っても」、学校の組織を変えて「新しい指導体制」を作っても、学校に「権威を与えても」、教育界が既存の「児童中心主義」思想に依拠している限り効果は上がらない。子どもの主体性や自主性概念をせめて現状の「半分」に制限しない限り学校でのしつけはできない。加えて、現在の学校には著しいルール違反者に対する物理的な処罰がない。人間の社会を見る限り、洋の東西を問わずルール違反者を強制的に処罰できない組織は組織として機能するはずはない。改正の方法には最新の注意を払わなくてはならないが、現行の「学校教育法」11条の「体罰禁止」規程は早急に改正しなければならない。(戦後教育における「体罰の前面禁止」は戦中の「狂気の体罰」に対するアメリカ占領軍と「子宝の風土」の過剰反応であった、と筆者は想定している。)
  現状の教員が関わる限り、「少人数学級」は金ばかりかかって効果は上がらない。また、「学校カウンセリング」こそはしつけの失敗の最悪の反面教師である。「学校カウンセリング」理論の大部分は「受容」の理論で構成され、アメリカの心理学者ロジャースの理論に依拠した「非指示的カウンセリング」である。子どもの現状の受容に力点をおいて、失敗したしつけの矯正ができるはずはないのである。
  ましてや教師を引っ掻いたり、蹴ったり、唾をはきかけたりする子どもに対してさえ、「『体罰』はぜったいにしない!!」と叫んでいる人々が現存する。"あなたも崩壊した学級や荒れた授業を担当してみたらどうか!?"と言いたい。真面目に学ぼうとしている子どもの学力への努力は誰が保障するのか?と聞きたい。このような教師が2〜3人いただけで、職員会議は収拾がつかず、ルール違反者に厳しく対処できない学校組織になることは目に見えている。
  問題は授業状況が改善できないだけではない。現代の学校カウンセリングは、不登校も引きこもりも万引きも家庭内の暴力沙汰も直すことはできていないではないか!「小1プロブレン」も同じである。「管理職が学級に入れば直る」ような安直な問題ではないのである。カウンセリングや管理職が解決できるような問題であれば、学校全体が一丸となって取り組めば解決できるはずである。「小1プロブレン」などという流行語が生まれるはずはないのである。
  「子ども中心主義」の風土に抑制を加えずして、「就学前教育を強化し」ても、「幼小連携/保小連携を進め」ても、子どもの興味関心を優先させ、子どもの欲求と子どもの主体性を混同する養育思想が変わらない限り、効果は上がらない。

(2) 愛情と交流で「事」は解決しない!!

  提案の多くは「親子のかかわり方」を変え、親相互のコミュニケーションを図れば「小1プロブレン」に有効であるという。「毎日本を読み聞かせ」、「向かい合って話し合い」、「親子が一緒に遊び」、「親がもっと愛情を注ぐべきである」などであった。しかし、これらの多くは既に多くの親が努めて実践している。しかし、子どもの「へなへな」も、「社会性の未熟」も解決はしていない。
  又、親の孤立を案じて、さまざまな「ふれあいプログラム」を作っても、「親同士が酒を酌み交わしても」、「家族ぐるみの付き合いをしても」、「子育てサークルをてこ入れして」、「子どもの情報を共有しても」、「子ども会活動」を支援しても、「教師と保護者のコミュニケーションを図っても」、「おやじの会」も、「おふくろの会」も事を解決はできない。問題の核心は「交流」ではなく、子育ての「思想」だからである。「子宝の風土」は子どもを「守り」、子どもの夢に「奉仕し」、子どもの欲求に献身的に「尽くして」いる。結果的に、「保護」は満点であっても、子どもが嫌う「鍛練」は不可避的に不足する。「子宝の風土」の副作用と言わなければならない。

4  原点は「地域」、核心は「指導者」
(1)  地域が鍵を握っている

  家庭がダメで、学校に期待ができないなら、支援の原点は「地域」にならざるを得ない。子どもを親から離すことが「子宝の風土」のしつけの基本だからである。「地域子ども宿」をつくれ、という提案があった。かつての「子やらい」の発想である。「しつけ道場を創設せよ」というのも同じである。地域の中に「遊びのコミュニティを作れ」、「『子どもを育てるプログラム』を作れ」、社会教育を重視し、公民館を開放し、「地域の総合的子ども活動センターをつくれ」。必要なのは「子どもの地域駆込み寺」である、とあった。小学校を止めて「地域学校」を作ってはどうか?「地域のおじいちゃん、おばあちゃんに子どもの教育権を与えてはどうか?」「地域の大人を学校のクラスにTTのように入れてはどうか?」などの提案もあった。これらの提案には、「地域」のアプローチは「学校」や「親」とは違うだろう、という「前提」があるのであろう。しかし、問題は「場所」や「拠点」では終らない。問題の核心は指導に当る人々の指導の思想と方法である。

(2)  指導者の研修を!

  問題は指導にあり、核心は指導者にあることは多くの人が実感している。遊べない教師がいて、子どもに愛情を持っていない教師もいる。多くの教員は地域の環境や子どもの発達障害を把握していない。現状の指導力では子どもに対応出来ていない。
  それゆえ、研修論には多くの提案が集まった。問題は学校や教員の対応能力不足である。それゆえ、「教員の力量をアップし」、「スキルの向上を図るため」、「教員に夏休みの『困難体験」を集中的に」与えよ、「実践的しつけのトレーニングを!」、「教師を『消防学校」へ行かせろ」、「学校の管理職が親や地域の問題に関心を持つような研修を」等が並んだ。「教育」よりは「訓練」が先だという意見も出た。それゆえ、教員を自衛隊に入れて「サバイバル」の訓練を受けさせよ、という意見まで飛び出した。
  教員が親とのコミュニケーションを持てるよう「学期ごとに教員と親の食事会」を開いたり、子どもの問題状況・発達上の課題などもきちんと研修して、率直に親に伝えるべきだ、という提案もあった。学校はしつけの崩壊に対処するため「指導に一貫性を持たせ」、「職員のチームワークを重視し」、教育目標を明示せよ、と続いた。

5  戦後「幼少年教育の失敗」

  しつけの失敗は明らかである。失敗の原因は既に何度も論じたが改めて次回は幼少年教育の失敗を論じたい。69回フォーラムには今回のブレインストーミングを踏まえた小論文を提出する。ポイントはシステムの問題だけではない。子育と鍛練の思想の問題である。「可愛い子を旅に出せなかった」親と日本の風土の問題である。子どもは定期的に親元から離して「守役」が育てる。解決法はここにしかない。残念なことに学校も子ども会も「守役」にはなれなかったのである。
 

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