ゲームと非ゲームとシリアスゲーム(1)

 先日受けた「まんたんブロード」の取材の時に、ニンテンドーDSの成功とともに「非ゲーム系コンテンツ」が注目されており、それらとエンターテインメントゲームやシリアスゲームをどう区別して捉えればよいか、という話になった。記事ではその話はうまく伝わる形では触れられていなかったので、簡単に考え方を示しておこうと思う。
 エンターテインメントゲーム、シリアスゲーム、非ゲームとも、その境目のあたりはそれぞれに重なっており、区切りははっきりしない。「エンターテインメントとして遊べて、シリアスゲームとして機能して、コンテンツのコアの部分は従来のゲームではない」コンテンツというのは存在し得る。エンターテインメントゲーム、シリアスゲーム、非ゲームの3つの輪が重なったベン図をイメージしてもらえばよいと思う。既存のタイトルの例では、「脳トレ」、「常識力トレーニング」、「ニンテンドッグス」などはここに含まれるだろう。それ以外の「これってシリアスゲームでは?」「非ゲームでは?」と思いつくタイトルも、いずれも何らかの形でその境界線のあたりにいると考えてよいだろう。
 3つのタイプのコンテンツが重なる部分を無理やり切り分けて考えようとしても、厳密に切り分けることは不可能だし、そんなことをしてもあまり意味はない。むしろそれらが重ならない要素を整理した方が得るところが大きいので、少しその辺りを整理してみようと思う。
★エンターテインメントゲームとシリアスゲームの違い
 もうすぐ発売の拙著に考え方を整理しているが、基本的には「作り手の意図」と「使い手の意図」の要素がその違いとなる。まず、そのゲームがシリアスゲームかどうかを判断するポイントは、作り手が「純粋な娯楽以外に何かのタメになる」ことを意図しているかどうか。次に、使い手が「娯楽以外の目的で」そのゲームを利用しているかどうか。この2点が判断軸となる。「遊んでいるうちに脳が鍛えられる」、「癒される」、「何かができるようになる」、という要素を考慮してゲームがデザインされているか、販売されているのであれば、そのゲームはシリアスゲームだと言ってよい。
 また、作り手にそのつもりがなくても、使い手側がそうした意図を持ってゲームを利用することもある。エンターテインメントゲームとして作られていたとしても、学校の授業で利用されたり、運動不足解消のために利用されたりすれば、そのゲームはシリアスゲームとして利用されていることになる。
 シリアスゲームとは、「エンターテインメント性のないゲーム」ではない。ゲームの持つ人を夢中にさせる力や学習を活動のなかに埋め込む技術を教育課題や社会問題に利用する、ということが基本にあるので、エンターテインメント性、あるいはゲーム性は、そのコンテンツの重要な要素として扱う必要がある。その意味で、エンターテインメントゲームとシリアスゲームの重なる部分は大きい。
 ポイントは「エンターテインメントの要素をどれだけ前面に出すか」ということにあり、そのゲームの想定される利用シーンによって、扱い方が変わってくる。ユーザーの自由時間の利用をメインにするのと、学校の授業での利用をメインにするのとでは、楽しさの要素の力点の置き方は変わってくる。
 いかに何かのタメになることをうたっていたとしても、つまらないゲームはユーザーの生活に浸透しないし、逆に学校での利用がメインであれば、(ゲームに対する期待水準が下がるので)楽しさの部分はある程度妥協できても、学習効果や授業での使いやすさの点で強みを出す必要がある。
 このように考えると、エンターテインメントゲームとシリアスゲームの切り分けは、機能面の捉え方の問題であるとともに、多分にゲーム開発のマーケティング問題に絡むところが大きい。そう考えると、エンターテインメントゲームの開発においても、ゲーム業界が社会に働きかけるための補助線的なコンセプトとしてシリアスゲームを捉えていくと、まだ未開拓分野は広大で、アイデアしだいで新たなヒット作を生み出す可能性は大きいことが見えてくるだろう。
 今日のところはここまでにして、不定期連載で次のトピックで話を続けようと思う。
★エンターテインメントゲームと非ゲームの違い
★シリアスゲームと非ゲームの違い