作り手のモチベーション

 テレビは各局とも先週今週がシーズンエンドで、「ウェストウィング」「ボストン・リーガル」「プリズン・ブレーク」は先週で終了で(ウェスト・ウィングは残念ながら今シーズンで打ち切りで、ボストン・リーガルは継続決定、プリズン・ブレークは、こんな変なところで区切るなよという感じ)、「24」「アメリカン・アイドル」は来週まで。「アプレンティス」(ちょっとマンネリ気味)もファイナル4まで来た。他にも見てないけど、いろいろと主だった人気番組が一区切り。
 その中で、発明家発掘リアリティショー「アメリカン・インベンター」も、大成功のうちに第1シーズンを終えた。このショーのことは前に少し触れたけど、アメリカンアイドルのフォーマットを使った発明家オーディション番組で、優勝賞金の100万ドルと、発明品の商品化と、初代アメリカン・インベンターの栄誉を目指して一般参加者が競う。一次予選を通過した発明家達の二次プレゼンで上位12人に絞られて、この12人は5万ドルを元手に、発明品をより完成品に近いプロトタイプを開発し、最終プレゼンに望み、最後の4人が選ばれる。
 ここまでは、ジャッジが選考するが、最終選考は、生放送の視聴者投票で優勝者が選ばれる。視聴者投票の結果、安全性の高い振り子式のチャイルドシートの発明家が優勝者に選ばれた。決勝で敗れた残りの3人も、それぞれ商品化を目指すチャンスを得た。前乗り式の二人乗り自転車を発明した少年は、自転車製造大手企業がインターンシップを提供した。アメフトのトレーニングツールを開発した発明家は、歴史上のNFLプレイヤー、ジェリーライスが全面的支援を申し出た。子ども向けの単語学習ゲームを開発した発明家も、ボードゲーム大手メーカーが支援を買って出た。
 この手のオーディション番組は、挑戦者の質いかんで番組の流れが良くも悪くも変わるが、今回のこの番組は、その点挑戦者の質が高く、ジャッジや作り手側も、挑戦者達の発明にかける熱意や発明品の可能性の高さに引きつけられて、回を追うにつれて盛り上がっていった様子が伺えた。ジャッジたちは本気で楽しんでいる様子で、番組の演出も、ひとりひとりの挑戦者たちの熱意あふれる様子と、その背景にあるストーリーが豊富で、良質な素材に恵まれていた。
 最終回の投票結果発表ショーは、その作り手たちが成功を確信して、その成功を楽しみながら作られた様子が伝わってきた。ジャッジたちは興奮して「アメリカは発明家スピリットを忘れていないことをこの番組が証明した!」とか、イギリス人のジャッジが「この素晴らしい発明家たちに出会えてほんとによかった。こんなこと言うとちょっと病気っぽいけど、アメリカのこういうところは大好きだ」とかちょっとクサめなコメントを連発していた。「ぼくらはほんとに楽しんだし、来年もまたこの機会を作ることにした」と早々に番組継続のアナウンスもされた。他のリアリティショーは、いかに成功裏に終わっても、次のシーズンのことは言わないで終わるのが通常なので、作り手たちがそれだけこの番組の成功を気に入ったということなのだろう。
 この様子に、「作り手のモチベーション」について考えさせられた。どんな分野においても、この「作り手のモチベーション」は、案外見落とされているけれども、実はいいモノを作る上で非常に重要な要素だと思う。顧客志向とかユーザー志向とか学習者中心とか、近年は受け手のことに気を遣う傾向が高まっているが、それはこれまであまりに作り手がユーザーを見てなかったことによる反動で、自然なことではある。しかし、「作り手のモチベーション」を大事にしないプロジェクトは、いかにユーザー志向にしてもうまくはいかない。
 エンターテインメント業界は、少数の「アーティスト」や「クリエイター」、「作家」たちの生み出すコンテンツへの依存度が高いので、この問題が見えやすい。音楽業界は、レコード会社の担当が、アーティスト達に売れ筋の曲を書かせて売り出そうとプレッシャーをかけて、それでかき乱され、迷走して短命に終わった人たちは数知れない。他の業界の作家やクリエイターと、編集者やプロデューサー側の関係も同様である。うまく行くプロジェクトというのは、それら作り手側の関係が良好で、周りにのせられて、価値がどんどん生み出される。逆にその作り手の関係が良好でなければ、いかにいいテーマを追っていても、アウトプットは人の心を動かさないものに終わる。
 
 ユーザーを無視した「作り手中心主義」では、いかに作り手がやる気に満ちていてもその矛先は成功に向かうことはない。しかし過度なユーザー志向を作り手に押し付けることで、作り手のモチベーションを無視しても、結果はよい方へは向かわない。このバランスは量的な尺度で測れるものではなく、今何%ユーザー志向だからこれでよし、などという性質のものではない。判断基準は過去の事例や理論を引けば知識として得られるが、それ以上のことは、文脈の中で微妙な変化を読み取りながら判断するしかない。このあたりのバランス感覚のようなものは実践の中でしか磨けない。
 この点について、教育面について考えると、学校的な「うそ臭さ」が残る演習の中では、こうした感覚は磨けない。「だりぃ」とか「うぜぇ」とか言いながらやった作業は、いかに「プロジェクト型演習」や「実習」などというお題目で何かを作っても、将来いいものを作る作り手となるための土台となる経験は得られない。学校的な環境で工夫するとしたら、単に「演習っぽく」課題を与えるだけでなく、気を弛めるとケガをする環境とか、うまくいったらホントにすごい何かを勝ち取れるチャンスなど、演習の中に何らかの「リアリティ」を取り入れる必要がある。そういうリアルな文脈で、何かを作ったり実践したりする中で、湧き上がるモチベーションを感じて仕事をする経験が重要で、その経験から、その後にも継続的に学習を続けてスキルを身につけたり、何かを完成させようという態度が形成されていく。
 ではモチベーションがあればいいのかというと、そうでもなくて、知識やツールの足りない状態でのモチベーションは空回りするだけで、成果にはつながらない。やる気があるからと言って、必要な支援無しに仕事を任せてもうまく行かないのは言うまでもない。何を投入すればモチベーションがうまく回りだすかを把握するには、やはりそういう場面に直面する前につけた知識や経験がものをいってくるのであって、モチベーションだけでは乗り切れない。
 しかし、そういう知識や経験がない時に、何が切り札になるかというと、逆説的だが、実はモチベーション、あるいは「気合」だったりする。気合などを持ち出してくると、まったく科学的でも理論的でもない話になってきて、インチキくさくなってくる。しかし肝心な場面では、下手な理論よりも気合の方がよっぽど有効なのである。たたき上げの経営者が、学者の言うことを戯言扱いして耳を貸さない傾向があるのは、このことを経験則として持っているからであり、「人間力」とかうんちゃら力なんていう、尺度ともなんともつかないような言葉が流行っているのも、学校で作ったような下手な理論はいいから、この気合の部分を活かす方向でなんとかして、という社会的なニーズのようにも見える。
 気合や人間力を高めるには、受身の姿勢で寒げい古や遠足のような「生きる力」風の活動をやらせるよりは、「ホンモノの作り手」となって、本気で何かを作ったり、パフォーマンスをする経験をする機会を与える方が有効である。ただこれも、その機会の作り手の教師のモチベーションが低ければ機能しないし、受身な学校社会に馴らされて、「いかにやり過ごすか」にモチベーションが高まってしまった学習者は、スタートラインがずっと後ろにあって、素直な学習者と一緒に活動させるのは難しい。
 何から手をつけていけばよいか非常に悩ましい課題ではあるけれど、少なくとも間違いないのは、「学校」というカテゴリーでひとくくりにして、多様な変数や文脈の違いを無視して、一元的に「こうしなさい」と指導するスタイルは機能するはずがない、ということだ。すべての状況を考慮するのは不可能でも、いくつかのモデルを想定して、取れる選択肢を充実させることで、柔軟性を高めていくことは可能である。
 作り手のモチベーションを最も阻害する要因の一つは、作り手に与えられた工夫の余地のなさ、柔軟性のなさである。逆に言えば、作り手たる教師、あるいは教師から見れば学習者に、適切なサポートをしつつ、工夫の余地を与えることで、管理する側が想定しないような価値が生み出されることが期待できるのである。

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